くよくよしない:覆水盆に返らず
- アニータ
- Jul 29, 2016
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アメリカでは”Don’t cry over spilt milk” という表現がありますが、それは直訳すると、「すでにミルクは溢れてしまったのだから、くよくよしない!」となります。日本のことわざで言えば、「覆水盆に返らず」といったところでしょうか。何か悪い出来事が起こった後、悲しむことが良い時もあります。私たちは感情的な生き物ですから、感情は私たちが情緒豊かな心を持っていることを表します。愛や慈愛を通し、人のことを思ったり、他人に同情したりしていることを表現します。人と悲しみを共有することもあります。大切な人や物を失くす時、泣くことは正しい反応です。悲しい出来事や状況に涙をこぼすことも必要でしょう。適切な時、適切なことのために泣くことは良いことです。
しかし、時に感情が子供のように幼稚であることもあります。特に、すでに複雑な状況を自分の感情的な反応から、よりややこしくしてしまう時等はそうです。このような時、感情は他人を自分の思うように操ったり、コントロールしたりするために用いられます。あなたも、このような感情の用いられ方を見たことがあるでしょう。
最近、ある方に「自分や自分の友達何人かは感情的な人である。皆、それを知っているのだから、自分たちの気質を尊重すべきだ」と言われました。要するに、彼女は自分や友人は特別扱いされるべきだ、と信じていました。もし、そうしてくれない人がいて、彼女らが感情的になってしまったとすれば、それは感情的にさせた相手の責任だ、ということです。本当にそうでしょうか?彼らを泣かせた人が「いつでも」悪いのでしょうか。相手が「いつも」悪いということがありうるのでしょうか。
周りの人に、「自分は傷つきやすく、涙もろいため、そのように感じることを言わないでほしい」と頼むのは愚かです。このように言うことは、未熟であり、相手を縛り付けることになり兼ねません。人を操ろうとするようなものです。愛と優しさに欠けており、非常に幼稚です。
このような傾向にあるなら、成長を試みましょう。自分の感情を自制するのです。あなたを感情的にする何かと向き合わなければなりません。なぜ、自分についての批判的な言葉を聞くことができないのでしょうか。なぜ、あなたにとって「良くない」と思うことが起こると、涙が出て、何も手につかなくなるのでしょうか。
最近、あなたが感情的になってしまった相手について考えてみてください。彼女は、あなたに声を荒げたかもしれません。彼女の普段の生活について知っていますか。彼女は、本当にあなたに怒っていたのでしょうか。それとも、生活で困難を覚えていて、誰か話し相手を必要としていたでしょうか。あなたは、相手を疑う心で話を聞いてしまいませんでしたか。彼女はあなたから批判ではなく、慈愛を必要としていたかもしれません。あなたが恐れ、困惑、また傷つけられていたとしても、相手は思いやりや、あなたの落ち着いた助言を必要としていたかもしれません。
相手のことを考え、相手の必要を自分の必要以上に考える時、自分の思いにおいて、自分が一番大切である、という考えには行き着きません。このような時、正しい反応を取ることができます。このような心持ちであるなら、相手と共に泣き、笑い、励まし、愛することができるのです。
—「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」(ローマ12:15、16)
—「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」(ピリピ4:8、9)
—「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Iコリント13:11-13)
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