高慢と偏見
- アニータ
- Jul 28, 2016
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先週三日間、何人かと会うために特別支援学校を待ち合わせ場所にしました。ほとんどの子どもたちは体に不自由があり、限られた動きしか取れません。私は毎日、早朝に学校に着き、子供たちや介護者と良い交わりを持ちました。ご父兄が子供たちを連れてこられることもあり、グループで登校する子供たちもいました。
二日目に、ちょっと気に触ることが起こりました。ボロボロで、中古のワゴン車が子供たちを乗せて到着しました。何人かは運転手の横、そして他の子供たちは後部座席に座っています。後部座席にはキャノピーがついていましたが、窓が一つ壊れています。ナミビアは現在、冬ですから、子供たちはここまでの運転中、さぞかし寒かったろうと思います。
私はワゴン車に歩いて行くと、ドライバーが子供たちを車から降ろすのを手伝っていました。そして、私の高慢な心が現れたのです。この男性は、安全かどうかも分からない車で子供たちを連れてきたことに腹が立ちました。真冬に、窓が壊れていることも気がかりでした。「手伝いましょうか」と声をかけると、「大丈夫だ」と言われました。不慣れた様子ではありません。ドライバーは、子供たち一人一人に手を差し伸べます。ワゴン車の後ろを閉めると、子供たちは彼を抱きしめ、口々に感謝を言いました。ある子供がこう言ったのを耳にした時、私の高慢な心が刺し通されました。
子供は「牧師先生、ありがとう」と言ったのです。
牧師先生ですって?
私はドライバーの方へ向き直り、「失礼ですが、牧師先生でいらっしゃいますか?」と尋ねました。
「はい」彼は答えました。「私が普段乗っているトラックが壊れてしまったので、子供たちを学校に送り届けるため、このワゴンを借りなければなりませんでした。子供たちには愛が必要です。ですから、送迎によって愛を見せられればと願ってしています」
私は、自分の高慢と偏見から「愛のある行動」とはどのようなものか、を決めつけてしまったことに恥ずかしくなりました。ドライバーが車に乗ると、手を振って見送りました。
三日目に同じ子供たちが小さなトラックから降りるのを目にしました。今回のトラックは状態が良さそうでした。同じドライバーがトラックの後ろで、子供たちを助けています。彼が去る時、手を振りましたが、私は同時に自分の心についても考えていました。昨日、彼はボロボロで窓の壊れたトラックを用い、貧しい子供たちに愛を示すことを選びました。子供たちを学校へ連れてくる、という約束を守るため、状態のあまり良くない車でも、約束を守ろうと決意したのです。
私の行動と彼の行動と、どちらの方がより愛のあるものだったでしょうか。
ドライバーの愛の行動は、子供たちを学校に連れて行く約束を守ることでした。1日目、子供たちは、確かに寒かったでしょう。しかし、ワゴンを下りる時、子供たちの顔は牧師先生の愛への感謝に輝いていました。私はもっと心地良い環境を提供してあげれば良いのにと思いましたが、必要不可欠ではありませんでした。私が、これこそ愛のある行動だ、と決めつけていたに過ぎなかったのです。しかし、ドライバーの行動、つまり彼の時間を使って子供たちを送迎することの方が遥かに大きな愛でした。ドライバーは約束の大切さ、そして人の面倒を見ることの大切さをしっかり理解していました。そして、彼を信頼する人たちにそれをどのように見せるのかも知っていました。
あなたの愛の表現は、どのようなものですか。その言動は、あなたについて何を言いますか。相手を心から思いやっているのか、または自分がどれだけ親切で、思いやりがあるかを人に見せるためにやっているでしょうか。このような言動は、真の愛ではありません。これは、自分を愛することです。相手の気持ちではなく、あなた自身が気持ち良くなることなのです。
ヨハネ15:13、14「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。私があなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたは私の友です。」
ヤコブ3:17「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、憐れみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」
Iペテロ1:22「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」
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